資産ブログコンサルタントのせーのです。
国家資格キャリア・コンサルタントでもあります。

ブログ運営をはじめて7ヶ月で月10万円の広告収益を出し、
SEOのスキルをかわれて2020年、ブロガー育成コンサルタントになりました。

クライアントから「数字(pvやGoogleの順位など)で結果が出る」と好評のコンサルティングを提供。

クライアントは、全員、AdSense審査に通過、7ヶ月で月20万アクセスを出すなど順調に成長しています。

10年前からはじめた投資でこつこつ増やした資産にあわせて、
ブログからの収益が見込めるようになったので、
2022年5月、念願だった家(一戸建て)を建てました。

私有する投資商品の値上がりグラフ(一例)

しかし、ここまでの15年間は、生活を安定させるために試行錯誤の連続でした。


もともと専業主婦だった私は、39歳で離婚


結婚前は地元の会社で働いたことがありますが、結婚で地元を離れることになり退職。
そのまま専業主婦をしていました。

しかし、夫と価値観があわず、ついに離婚を決意。39歳のときでした。

しかし、親からは「実家には帰ってくるな」と言われてしまいました。
実家は裕福なほうだったので、私一人はいても困らなかったと思いますが、そのまま家事手伝いで居座ってしまえば、将来はどうなるのか…
いま思えば、自立を促す親心だったんだろうなと思います。

そこで、地方のお嬢さん育ちだった私が東京で自活することになります。

バツイチ39歳に厳しい就活、ハロワの帰り道に泣く

小さな求人メディアにのっていたアシスタントのようなカンタンなパート。
「これなら受かるだろう」と応募したのに落ちてしまいます。

人材派遣会社の登録にも3社行っても、
「もう40でしょ」、
「30歳だってなかなか仕事見つからないんだよ」とけんもほろろ。
4社目で「大丈夫ですよ、39歳でも。当社は主婦の登録も多いから」と
親身に相談にのってくれて、しみじみとうれしかったのですが、紹介はもらえませんでした。

パートに落ち、人材派遣会社では紹介をもらえずに、
ハローワークへ行きました。
窓口に相談にいくのすら怖くなっていた私は、
求人情報を見られるパソコンに向いました。

「39歳、大卒、無資格、Word、excelは使える…」

自分にあてはまる条件をいれて検索していみると、
いくつかの求人が出てきました。

「私でもできる仕事があるんだ」、それを見てほっとしただけで、
断られるのが怖くなっていた私は応募する勇気がわかずに、トボトボと駅へ向いました。

「私はこれからどうやって暮らしていったらいいんだろう」

心細くて、ひと目を避け、路地で泣いていました。

「自分になにができるのか」
それも知らずにひとりで暮らしていけるなんて
甘い考えだったのだと痛感しました。

なんとかパートにありつく

なんとか知人の紹介でNPOにパートで勤め始めました。

産休を取る人の代替えとして契約職員にはなれたものの、
同僚は大学院を出た20〜30代の若いスタッフばかり。
未経験の自分が正規採用になるのはどう考えても無理だと見えてきました。

「自分だけの専門性」を探していくなかで、
専門職を知り、勉強して資格も取りました。

52歳で転職に成功、正社員になれた

資格をいかして仕事をしていく中、ヘッドハンティングをいただき、転職。
52歳で念願の正社員になれました。
「今までがんばってきてよかった」心からそう思いました。

新しい職場では、自分がやりたかった人材育成の仕事をいただきました。
やりがいがあり、意識の高い同僚・上司にも恵まれて充実していました。

しかし、少人数でいくつものタスクをこなしていく業務スタイルは、
ひとつのことをじっくりやっていく自分にはなじみのないやり方でした。
ある業務をしっかりやろうとしていると、次の仕事が追ってくるのです。
残業や休日出勤をしながらも、だんだんこなしきれないようになっていきました。

転職するも激務で体調を崩し5キロやせる

多忙からか、1年目から腎盂炎や膀胱炎、胃腸炎などの不調を数ヶ月おきに起こすようになり、
体重は1年で5キロも減少しました。

身体はこのときとっくに悲鳴を上げていたのです。

それでも「これが終われば休める」と思いながら1000人規模のイベントをやり、
しかし、休みがとれないまま、海外出張へ出発。

帰国後、代休も取らずに復帰したものの、
疲れがたまっていた私はミスを起こすようになり、
同僚から叱責されたことがきっかけでメンタル不調になり、
休職にすることになってしまいました。

過労から休職に

休養して、自分の体質や特性を知っていく中で、「自分に無理をさせる生き方は長続きしない」と痛感。

当時通っていた鍼灸セラピストから、「あなたはマイペースで暮らせるようにしたほうがいい。手に職つけた方がいい」と勧められました。

「手に職(てにしょく)」探して試行錯誤

「雇われてる身では自分のペースで働けない。それはしんどい、もう嫌」と感じて、独立して仕事ができる「手に職」を探し始めました。

個人でできるビジネスはなにか、試行錯誤が始まります。

勧められた鍼灸師は資格を取るのに3年という時間と500万円の学費、投資額が大きすぎて断念。

知人がやっていたAmwayは、ものを売るのが苦手な私には無理でした。

起業塾に通ってみるものの、自分らしいビジネスプランが作れず、なにより開店資金が数百万円かかるのはリスクが大き過ぎます。

4回の転職経験をいかせないかと取った国家資格キャリア・コンサルタント。

資産ブログとの出会い

そんなとき、知人のブログ塾にであいました。
そのブログ塾はこう呼びかけていました。

「不労所得を生み出す資産サイトを作りましょう」

離婚を考えていたときに繰り返し読んだ『金持ち父さん貧乏父さん』の教えを思い出しました。

経済的自立のためには不労所得を生み出すための「資産形成」をすること。
この10年間、ETFや株式投資をやってきて、資産は増えたけれども不労所得を生み出すところまでは届かなくて、行き詰まりを感じていた私は、ピンときました。

「これなら在宅でできるし、起業と違って開店資金もほとんどいらない。できるかどうかわからないけど、資産を作るためにがんばってみよう」

初心者がアフィリエイトブログ運営をスタート

そう決意して学費を払い、イチからブログ作成しはじめました。
サイトを作るのは思ったよりもカンタンにできたものの、記事を書くのが大変でした。
1000字を書くのがやっと。
1800字の記事に1週間かかりました。

1ヶ月で15記事という目標に向かって、同期生はどんどん記事を書いているのに、私は月7記事がやっという更新ペースの遅さでした。

「でも、資産を作るには書き続けるしかないんだ」
歯をくいしばってパソコンにしがみつきながら、記事を書きました。

すると、ひとつの記事が当たりました。
それまで1日あたり30アクセスくらいだったのに、その日は500アクセスになっています。
びっくりして、先生に「今日は500アクセスになっています!!」とLINEしたほど。

ところが、翌日は800、その次の日は900アクセスと伸びていくではありませんか。
そのほとんどが、1記事のアクセスです。
それがサイト開設後2ヶ月半、14記事目の投稿記事でした。
その記事はどんどん読まれていき、それに励まされた私は記事を増やしていきました。

そうして、4ヶ月で1.5万アクセスが取れるようになり、7ヶ月で目標だった100記事の投稿を果たし、ブログでの広告収入が月10万円を達成できました!

50代でも、WordPressの初心者でも、基本さえ身につければブログで稼ぐことができる!そのことが体感できた瞬間でした。

ブログのアクセスを伸ばすスキルを評価してもらい、翌年、ブロガー育成をしないかと声をかけてもらい、コンサルタントになりました。

個人事業主になった私の夢は

現在は、個人事業主になり、ブログ運営とコンサルタント業で生計をたてています。
茶道の稽古、地域のボランティア活動と、
いくつかの収入の柱があり、楽しみながらやっています。

私には独身のころからずっと夢がありました。

「ありきたりの家ではない、私だけの家がほしい」という夢です。

      趣味の茶道・生け花ができる和室のある家が憧れ

続けていた資産運用

投資スクールにかよい、独身時代の貯金をもとに運用を始めたのが2004年、
リーマンショックの直後に買った投資商品は値あがり、
マンションが買えそうなところまで増えていました。

投資を始めた2009年ごろは日経平均が1万円ほどでした。

そのころに買った「トピックス上場投信」は102%、150万円の差益を生みました!

(私有する投資商品の一部です)

でも、おひとりさまの私は、老後に備えていたこの資産を減らすことへの恐怖があり、
「自分の家」を持つことをためらってました。

思い出すのは、60代独身という彫金作家さんが住んでいた都営住宅。
本人は楽しそうだけれど、私には住環境の貧しさがしんどく思えました。

2DKの小さな部屋にあふれるほどの道具がならんでいました。
コンクリートのベランダにはプランターに枯れた植物が…

「私も年を取ったらあのような生活になるのだろうか」心が折れそうでした。

「そうなりたくない」一心で投資を続けながら、六畳ひとまの賃貸アパート(マンションですらありません)で、つましく暮らしていました。

ブログによって「自分で稼ぐこと」ができて生活が安定してきたときに、思い出したのは「ありきたりの家ではない、私だけの家がほしい」というあの夢でした。

マンションではなく、思い切って一戸建てを建てることを決意しました。
おひとりさまが一戸建てを建てる、その背中を押してくれたのは、私が育てた資産ブログでした。

これがあれば、食いっぱぐれない」という安心でした。

運命の土地との出会い

2020年春に土地を探し始めて、里山にほど近い清流のほとりにある土地に出会いました。
通行量が少なく、とても静かな環境。
「ここで暮らしたい!」心からそう感じられた場所でした。

秋に土地の売買契約を済ませて、地鎮祭を行いました。

おんな一人での鍬入れ…感慨もひとしおでした。

注文住宅打ち合わせ コツは?

2020年夏、土地が決まったことで、設計事務所が自宅の設計をスタートしました。
私の希望にあわせて、何パターンもの間取を考えてくれました。

2017年夏、「家を持ちたい」と考え始めたころからかきためていたノートを元に打ち合わせで。どんな建物が好きでどんなテイストにしたいのか。

小規模な茶会を開ける和室や書斎、着物部屋など、
いわゆる「普通の家」とは違う要素が要求されるわが家。
20年以上の経験がある設計士でも苦労のしがいがあったようです。

間取図
設計士が書いた「私らしい暮らし」を具現化するためのプラン

吹き抜けのあるリビング、茶道の稽古ができる和室と庭…形になりました。

50代一人暮らしの間取りって?

こじんまりしたリビングは庭に開けて、小鳥が水浴びしているのが見えます。

吹き抜けに面した書斎で仕事をしています。

真っ白な漆喰(しっくい)壁の落ち着いた空間で仕事もはかどります。

2階のベランダからは山が見えます。

国産杉の無垢材をはった床は温かく、裸足でも気持ちいい素材です。
シンプルな空間で心が安らぎます。

やっと、「安住の地」ができた。

ハローワークの帰り道、泣きながら帰っていたあの日を思うと、夢のようです。

手に職(てにしょく)つけて、自由になろう

もう、年下の上司に遠慮してペコペコしなくていい。
もう「更新してもらえるかな」と契約更新のたびに怯えなくていい。
年を取ったらリストラかも、と怯えなくていいんです。

自分には特別なスキルがないし、がまんするしかない…

なんて、思わなくていいんです。

「手に職(てにしょく)」をつければ、自分で稼げます。
手に職とは「これがあれば自分は食べていける」というスキルのこと。

いま、私は1日4時間ほどのブログとコンサルタントの仕事の合間に、気分転換に料理したり、散歩したりヨガに通ったりと、自分が好きなことだけをやって暮らしていける生活を手に入れました。
スーパーだって、空いている平日にいけば買い物もラクラクです。

そして、こだわりを詰め込んだ茶室でひとりお茶を。

これから、自分ももっと稼いで、応援している陶芸家・漆器職人の作品をお金にいとめをつけずに買っていきたいし、高品質な温泉旅館で好きなだけのんびりしたりする経済力をつけていきたいです。

そして、「なにか手に職つけたい」と思っている人が、ブログ運営というインターネットビジネスを自ら作っていき、自ら稼いでいく仕組みを作っていくのが夢です。

そのために私が持っているスキルを惜しみなく伝えていきたいと、大人のブログ塾「tenichoc(てにしょく)」をたちあげました。